ふらんす*にちようざっかblog

美術とフランスにまつわる雑話。でも最近は子育てネタばかり。

人間の未来へ展

水戸芸術館で開催されていた「人間の未来へ ダークサイドからの逃走」展(2006年2月2月25日〜5月7日)に行ってきた。水戸芸には実は今まで行った事が無くて(と告白したら院生室でものすごく驚かれてしまった)、ちょうどナクトウェイの講演会に合わせて行くけど一緒にどう?と院生友達に誘われたので、総勢4人(途中で5人に)で行ってきた。いやー水戸、遠いね…交通費もかかるし。美術館前に着くと、世田谷美術館が連想されたのは何でだろう。館の前に北欧家具のお店があったのでちょっと寄ってみたかったなー(時間が無かったので行けなかった)。午後から行ったんだけど(家を出たのは午前中だが)、もう少し早く着くようにして偕楽園でお弁当食べても良かったね〜なんて言いつつ見学開始。
誘われたのが前日で、水戸芸のチェックなんてしていなかったので何の展示なのか分からずに慌しく行ってきたんだけど、展覧会タイトルからも分かるように暗い内容の展示だった。戦争や飢餓貧困などの災いからどれだけ我々は逃れる事が出来るのか、ということをテーマにした4人の報道写真家と9人のアーティストによる作品展示である。全ての作家に通底するのは、会場で提示されていたトルストイの言葉「この世界に悪はない。悪は全て我々の心の中にあって、これを滅ぼす事は可能である」。悪は元来存在しない。それを存在するものと化してしまうのはわたし達人間の心であって、我々が努力をすればこの存在しない悪は、存在しないという本来のものに帰化させられるのだ。芸術作品の社会性とは慎重に扱わなければならない問題だが*1、それが美なるものである場合には芸術作品は成立する。ダークサイドを増長させて見せるものもひとつの手だし、それを隠蔽して見せないものまたもうひとつの手である。コンテンポラリーアートは社会性と結びつきがちであるが、しかしそのやむを得ない結びつき*2をどう扱うかが作家の腕の見せどことなのである。今展覧会は前者の立場に立ち、それを作品として見せる作家たちを集めたものであった。

報道写真は時として衝撃的であるが、しかしそれは記録に過ぎず、個人的に記録にはあまり興味がない。穿った見方をすれば、撮られたものが“本物”であるという保証もないのだ。記録写真の恐ろしいところはそこであり、つまり見る側はそれが写真であるがゆえに“本物”であると思わされてしまうのだ、それがたとえ写真家の細かい指示によって配置されたものごとであったとしても。道端に落ちている手首は、もしかしたら死体配送の際に転げ落ちただけかもしれないのだ。悲惨な世界はもちろんある。それを撮り、そのことに無自覚な人間に対し警鐘を鳴らすのもいいだろう。そこに嘘がないのならば。報道写真に対して否定的な意見をつい書いてしまったが、もちろんこれらの存在によって自分の属していない世界の情勢を知り新しい人生の選択をする人がいるであろうことは認めているし、その点での報道写真の価値は認めている。
やはり個人的には、こうした悲惨な事実を認識した上でそれを自分の中で昇華されたものとして提示するアーティスト作品の方が面白いと思う。今展覧会でわたしが最優秀賞をあげられるとしたら、ダントツで橋本公の 1945-1998 だ。1945年から1998年まで世界中で行われた2053回の原水爆実験を、1ヶ月を1秒に圧縮して約15分のアニメーションイメージとして地図上に再現した作品である。我々の身体リズムに馴染んだ1秒という単調なペースで刻まれるテンポ、そこに被さってくる破裂する色彩(爆発の規模によってその破裂の規模も変わる)。それは殆ど音楽のようであり(実際わたしはダムタイプの音楽を思い出した)、映像的にも“キレイ”なので、思わず見入ってしまう。ものすごく緻密に計算して作られた作品なんだろうなと思わせる。そんな技巧的なところも、アートと呼ぶのにふさわしいのではないだろうか。膨大な回数の原水爆実験が行われていたという事実を目で見て知る事が出来、そのうえ光と音のアートとしての美しさも持った素晴らしい作品だった。
100 Suns不謹慎を承知で言うが、爆発は美しい。空中に広がるきのこ雲の形、変化する空の色、こういったものを人間は人為的に作り上げる。この作家はその美しさに見せられているのではないだろうかと思ったのがマイケル・ライト Michael Light である。彼のシリーズ写真 100 SUNS原水爆実験を記録したものだが、実験の被害の甚大さを思わせる作品というより、爆発時の美しさを撮った写真のように思えた。実験者たちやその実験を見学する人々の様子も撮っていて、かれらは原爆実験者でありながら被害者にもなるのだと思うと、実験に対する無意味さを感じずにはいられない。

見学後、ナクトウェイの講演会に行く。マイク音量が小さくナクトウェイの声があまり聞こえなかったのだけど、報道写真家として世界の危機を訴えるというものだったように思う。公演中の発言「写真はもはや記録ではなく、歴史を作るものになった」はいただけなかった。ある意味でそれは正しい未来予想図だが、正義感と芸術は、重なるのはいいが同化はしないものだしシテはいけないと思うからだ。18時半から別の用事が都内であったので、わたしを含め3人は途中で抜けて水戸を後にする。残った2人に講演後の質疑応答の様子を聞くのを忘れてるな、そういえば。(29-04-2006)

展示されていたアーティストたち(展示室順)

アントニー・ゴームリー(1950-) イギリス
マイケル・ライト(1963-) アメリカ
マグダレーナ・アバカノヴィッチ(1930-) ポーランド
ビル・ヴィオラ(1951-) アメリカ
スゥ・ドーホー(1962-) 韓国
橋本公(1959-) 日本
ジェームズ・ナクトウェイ(1948-) アメリカ
広河隆一(1943-) 日本
フィリップ=ロルカ・デコルシア(1951-) アメリカ
オノ・ヨーコ(1933-) 日本
ユージン・スミス(1918-1978) アメリカ
長倉洋海(1952-) 日本
シリン・ネシャット(1957-) イラン

*1:何故なら芸術は善悪の判断をする裁判官ではないし、また、反社会的芸術作品も認められるべきなのだから。

*2:作家もまた、現代生活に生きるひとりの社会人であるのだから。