ふらんす*にちようざっかblog

美術とフランスにまつわる雑話。でも最近は子育てネタばかり。

モローについて

Gustave Moreau: L'Assembleur De Reves 1826-1898日本でギュスターヴ・モロー展が開かれている。先日パリに来ていた友人がその展覧会に関わっていたので内容を聞いてみたら、「大観的な展覧会で、あまり深く突っ込んだ内容ではない」とのこと。モロー美術館からいなくなった作品から鑑みて、ファンタジックなものに焦点を決めた展覧会なのかなと思っていたのだけど、違ったようだ。モローは後半、特に1876年以降が面白くなる作家なので、それ以降の作品に焦点を絞った展覧会ができるといいなぁ(夢)。

Gusave Moreau (Paris 1826- Paris 1898)
建築家の父と音楽の素養のある母の元に生まれ、古典文学を父に与えられて育つ。アカデミー画家F.ピコのアトリエにて修行し国立美術学校に通うが、2度のローマ賞を逃した事で、学校を去る。
イタリアへの私費留学兼旅行(1857-1859)を経て、1864年のサロンに発表した《オイディプスとスフィンクス》にて最初の成功を納め、1866年のサロン発表作《オルフェ》でその地位を確立。当時流行していたサロメを主題とした作品《出現》を1876年のサロンに出品、そのヴァリアントを次々に発表。ユイスマンス(『さかしま』1884年)を始めとする文学者たちの賛辞を受ける。1880年を最後にサロン出品を取りやめ、愛好者たちからの注文制作を続ける。1886年には、パリとロンドンで、生前唯一個展が開かれる(ラ・フォンテーヌ『寓話』の挿絵+大型水彩画数点)。
基本的には自宅兼アトリエに篭って制作していたが、社会的な活動も行ってはいた。1884年にはオペラ座の衣装デザインの仕事を引き受け、1888年に芸術アカデミー会員になってからは89年パリ万博、93年シカゴ万博のための審査員を務める。1891年の親友エリー・ドローネーの死後は、彼の後を継いで国立美術学校の臨時講師となり、翌1892年に正式の教授となる。

自らの想像世界を丸ごと閉じ込めた美術館建設を1893年以来構想、晩年をその準備にあてる。1895年にそのための増改築を始め、胃癌に苦しむ体をおして作品の整理・修正・制作。モローの死後、金銭的な問題その他を遺言執行人であった旧友アンリ・リュップが解決し、初代館長にはルオーが就任、1905年に念願の美術館開館となった。
国立美術学校教授時代の弟子に、G.ルオー、H.マティス、A.マルケ、C.カモワンら、フォーヴィスムの旗手たちが多くいたことは注目に値するであろう。