六本木クロッシング2007 未来への脈動展
六本木ヒルズ内森美術館で14日まで開催の六本木クロッシング2007 未来への脈動展に行ってきました。てっきり若手作家の展覧会だと思い込んでいたんだけど違って、昔からいる作家の中でも四谷シモンはちょっと異質でした。
この六本木クロッシングは、森美が2004年に始めた企画展で、今年が2回目。今回は4人のキュレーター*1が選ぶ36組の日本人アーティストの展覧会となった。
面白いなーと思ったのは、グロな大犬の吉野辰海、細密画のような銅版画の冨谷悦子*2、鳩に名前をつけちゃう田中偉一郎(しかも刑事ドラマ風)、上手すぎて小憎らしさすら覚える佐藤雅彦が桐山孝司と組んだ算数体感ゲート、そしてついじっくり読んでしまう、新聞を手書きでコピーする吉村芳生*3。
そうそう、このジャパンタイムス、出口のショップで売ってるの。わたしは買わなかったけど、1万枚限定オフセット印刷で、一枚なんと100円しないの。ジャパンタイムスと同じ値段で売ってるんだそうで。一緒に行った友達も迷っていたので買わせました(そしてわたしは買わなかった。さんざん誘っておいて)。「なんか100円しないものを買うか買わないかに、何で自分がこんなに悩んでるのかその状況が可笑しい」と言いつつ買った彼は、さぁどう使うのでしょう(笑)。わたしは新聞らしく“包み紙”または“鞄の詰め物”使用を薦めてるんだけど。
見終わって思うのは、外部あるいは他者無くして現代アートはありえないんだなぁという感想。それはもちろんリアルライフなわたしたちでもあるわけなんだけど、でも過去のアートは決して“対社会的”ではなかった。パトロンのためであり、やがては自分のためのものであった。社会がからんでくると、そこで生まれる作品はアートと言うよりもマニフェストだったりクリティックだったりしてしまう。“アート”と言う、本来“技術”を誇るはずのものがないがしろにされてしまうような気がするのだ*4。
四谷シモンの作品が異質だったのは、多分現代の多くの作家が自分の外の世界とのコミュニケーションの在り方を図っているのに対し、四谷シモンは自分しか見ていないからだと思う。社会性の無さが、彼の作品をこの六本木クロッシングのなかで異質に見せているのだろう。
もちろん制作に正しいとか間違いとかは無い。社会性がないから面白くない作家であるわけもない。けれども“社会との向き合い方”というのが暗黙のうちにルールとなってしまっている現代アートの世界の中で、昔ながらの自己没入型制作である四谷シモンの作品が浮いてしまうのは仕方が無いことなのだろう。