ふらんす*にちようざっかblog

美術とフランスにまつわる雑話。でも最近は子育てネタばかり。

Foujita展

東京国立近代美術館で開催中の「藤田嗣治」展(2006年3月28日〜5月21日)に行ってきた。コンパスを使わずに正円を描き「レオナルド・ダ・ヴィンチの再来」と言われたフジタ(だからフランス名がレオナール)ですが、えーとね、フジタの知名度を甘く見ていました。あんなに混んでいるとは…。例えば一般的に知られている意味においての印象派絵画が人気なのは分かる。色がもやっとしていて柔らかく、読解を必要としないからだ。しかしフジタだよ?ドイツの版画を思わせるような、あんな硬質な印象を与える作家が人気?東近美に入った瞬間、予想を超えた人の多さに吃驚した。因みにあれだけ混むなら、チケットもぎりの前に入場制限をしたほうがいいと思う。


     
生誕120周年を記念する、日本で初めての大規模な回顧展。全3章構成で、各章が2節あるいは3節にわかれる構成だった。並びは時系列で彼の作品変遷が分かり易く、作品同士の間隔もちょうど良く見易い。

1)エコール・ド・パリ時代
 1−1)パリとの出会い
 1−2)裸婦の世界
2)日本へ
 2−1)色彩の開花
 2−2)日本回帰
 2−3)戦時下で
3)再びフランスへ
 3−1)夢と日常
 3−2)神への祈り

国立美術学校時代に黒田清輝のもとで学んだフジタは1913年にパリへ留学し、モディリアーニらと親交を深める。しかし、小品の人物像などは別として、フジタのスタイルは基本的には古典的であったように思う(《パリ城門》《パリの風景》など)。やがて「乳白色の肌」で彼を一躍有名にする裸婦画が生まれるが、これらの作品は、色彩の面では新しくても、構図やモチーフにおいてはあくまでも古典的である。ゴヤの《着衣のマハ》・《裸のマハ》を連想させる《座る女性と猫》・《裸婦》(共に1923年)など。このセクションで感じたのは、背景と人物の衣装や持物との柄の連動である。マティスやヴュイヤールの室内画を思わせるこの手法は非常に「装飾的」であり、エコール・ド・パリと呼ばれる流派*1が制作態度の点において前衛派に近い存在であった事を感じさせる。地と図の境が不安定になるほどの装飾、それは非常にフランスを感じさせるものであるのだが、一方でフジタの裸婦像は日本を感じさせる面も持つ。例えば黒くフラットな背景や金地背景、あるいは朦朧とした布や背景の処理などである。琳派の絵画作品のようにべったりと平面性を強調した背景は、図としての人物像を、フジタの特徴である乳白色の肌を持つ女性像を、前面に押し出す。過剰装飾とミニマリスムの拮抗が、フジタの持ち味であった。
しかしそれは1931年の南アメリカ体験によって大きく変化する。描く主題は生々しくなり、色彩は氾濫し(節タイトルは“開花”であるが、寧ろ発見と言った方がよいように思う)、モデルには娼婦たち(だと思う)や大道芸人が選ばれる。芸術とはなんであるのかということを頭で考えて描いていたフジタが、もっとリアルに接するようになった表れであると言えるのではないだろうか。今までフジタが戦争画に手を染めた理由が分からなかったのだが、今展覧会を見て、自身の芸術をリアルへ転化させた事がフジタを国家主義に促したのではないだろうかと思うようになった。自国外で暮らすことで国民意識が芽生える(あるいは強まる)事は容易に想像できるし、フジタの場合もそうだったのだろう。国とは何か・国民とは何かということを、一旦国外に出たがゆえに考えるようになった作家だったのではないだろうか*2。作品としては脂色を貴重とした、グロやドラクロワジェリコーの模倣に過ぎないが、しかしこうした戦意高揚のための絵画を手がけることは、けっして不自然な事ではないような気がした。だが何故それが反戦ではなく応戦の立場だったのかは分からない。自伝などを読めば何か分かるだろうか?
戦後、戦争協力者として弾劾されたフジタは再び日本を離れる。リアルを描く事に自らの画業の使命を感じていたであろう画家は、恐らくこの弾劾に酷く傷ついた事だろう。周囲の状況の変化を感じ取ってそれを画業に活かしてきた作家なだけに、この弾劾により何を描くべきなのかという根本的な問題を再び問い直さざるをえなくなったように思われる。そして、イデアの絵画だった初章からリアルの絵画となった次章の後、最終章で晩年のフジタは再びイデアの絵画へと戻った。しかしそのイデアはもはや現実世界を主題とせず、神と子供の世界へ主題を求めるものであった。そしてそれは以前に増してより逃避の傾向を強める。時代も地域もを超えたイタリア絵画(クリベッリを髣髴とさせる)や後期ゴシック・初期ルネサンスに想を得たような宗教画*3を手がけ、子供や日常を描いたような作品であってもそれはあくまで日常ではなく、現実にはありえない“夢の日常”であった。百鬼夜行的な動物たち(わたしはこれを見て、北斎漫画や川鍋暁斎の絵画、あるいはイソップ物語の挿絵を思い出した)がわらわらと集まり、無表情な子供たち(子供と言うより寧ろそれらはビスクドールである)が職人に扮する*4。画面内のモティーフひとつずつを細密に描き、艶々とした表面を見せる晩年の作品は、まるで15世紀のドイツ絵画でありあるいはそれらを手本として20世紀ワイマール時代に復興した即物主義絵画に類似する。果たして彼にとって、対話の先は神しかなかったのだろうか。絶対的な“力”を求める心理状態にまで、彼は追い込まれたのだろうか。展覧会の後半は、本人にとっては安らぎであったのかもしれないがしかし、制作者としての苦悩を見るような寂しいものに感じた。陶器の皿や煙草入れといった日常道具に温かみを感じられただけ救われる。会場の最後には、わたしが門の手前まで行った(閉館日だった…)フジタ礼拝堂の内装がパネル展示されていた。やっぱりもう一度行くべきかな。


展覧会鑑賞後は、常設展示を見る。以前来た時とは配置換えがされており、わたしの好きなアンドレ・ケルテスの写真が数葉あったのが嬉しい。高村光太郎の彫刻はやはり凄い。(14-04-2006)

*1:フランス留学中に感じたことなのだが、多くのフランス人はこの流派を無視に近い形でしか扱っていない。それらは歴史資料としての価値しか与えられずにいるようだ。

*2:その意味で、フジタは“日本人”ではなかったのである。国に戦争画の依頼を受けつつも、戦場そのものを描かずに“日本”を思い起こさせるような富士や武将の絵で協力をした画家たち(彼らは戦争責任者としての追及を免れている)のほうが、よっぽど“日本人”なのだ。

*3:初期の金地背景は日本の屏風絵を連想させたが、この時期の金地背景はあからさまに西洋的である。

*4:1960年代の連作《小さな職人たち》の中には“mechant (意地悪)”や“vagabond (浮浪者)”も含まれており、それ“職人”か?と笑ってしまった。