ふらんす*にちようざっかblog

美術とフランスにまつわる雑話。でも最近は子育てネタばかり。

ディスタンス

《DISTANCE》
監督:是枝裕和
日本、2001年、152分 ☆☆☆

常に“何かと対峙する個人”というものを描く是枝監督作品の中でも、ドキュメンタリー性が強く、鑑賞後感の余韻や役者の緊張した息遣いなどが生々しい作品。それだけに一度見たらなかなか忘れられないものでもある。基本的に是枝はファンタズムの作家だと思うのだが、それでも見た後に鑑賞者の心に考えなくてはいけない重要な何かを残すのだ。


○o 新興宗教団体「真理の箱舟」が引き起こした無差別大量殺人事件から3年経ち、その実行者の遺族たちが集まりひっそりと家族の供養をするために山に登り、そこで元教団員の男と出会う。帰路、彼らの車と彼のバイクが姿を消し、帰る術を失った加害者遺族たちと元教団員は、3年前に教団員たちが使っていた山小屋で一晩を明かすことになる。一晩の間に交わされる会話、フラッシュバックする教団に家族を取られたその背景、教団員たちの山での生活の一端。
1995年のオウム真理教団による地下鉄サリン事件を下敷きにし、テロの手口は1998年の和歌山カレー毒物混入事件をモデルにしていると思われる作品。さらには宗教紛争の名の下に戦争を繰り広げる人間に対する批判的な意見も入っている。このくだりは、本当に、世界中の宗教信仰者に見てもらいたい。


瞠目すべきは、“被害者遺族”と元教団員なのではなく、“加害者遺族”と元教団員であるその設定だと思う。被害者と元教団員とでは距離がありすぎる。加害者の遺族だから、この映画が成立するのだ。そして単純に両者の会話だけで物語が終わるのではなく、最後にぽんと謎を提示し、その回答を暗示させる方法で終わらせる、
その手法が、あくまでもこれは映画なのであるという監督なりのけじめであるように、わたしには思える。是枝監督が「映画」というものをどう定義付けて作品を撮り続けているのかわたしは知らないが、映画のファンタズムを忘れない彼の監督方法には非常に好感が持てる。

ルポルタージュと映画作品とを分けるのは、技術技法ではなく、「物語の語り方」なのだ。ルポルタージュは、取材者の心象によって歪められた(それこそがプラトン哲学で言うファンタズムだ)現実であり、肯否の判断は鑑賞者にある。対して作品とは、その歪められた事実を肯定(あるいは否定)して完結したものとして鑑賞者に提示し、
その作家の心象を鑑賞者に説得できたものである。今作で是枝は、社会的に排除される側の人間たちに歩み寄り彼らの意見を聞き、そしてその上で宗教の否定(しかし信仰心の否定ではない)と濁った世の中の再提示、そのための努力を映像化してみせる。是枝は自然描写が得意な作家だと思うが、身近な自然と雄大な自然、
この作品の中では野草と遠くの山(と湖)、雛菊と百合などを対照的に写しながら、個人と社会とをまでも比較させて見せていて、それが嫌味なく対比する場面展開に巧さを感じた。


誰しもが心に不安を持つし、何かに縋りたくなる。それは事実であり真理である。しかし「絶対」や「真実」というものは外部から与えられるものではなく、自分の中に持つものでなくてはならないということをどうして日本人は、世界の人間は信じられなくなったのだろうか。何かに縋りたい、祈りたい、そう思うのは、(日本においては)社会のせいではない。迷いながらも、それでも信じる何かを自分の中に見つけること、それが生きることであり生活し続けることなのだから自分の中に見つけなくてはいけないのだ。現実の中で折り合いをみてやっていくこと。汚れた世界で生きること。汚れた世界の中だからこそ綺麗なものが際立って見えるかもしれないのだ。複雑な社会生活の中に、一つシンプルなものを見つければ、それを信じてわたしたちの世界は広がる。




【 !! 以下、ネタばれです !! 】


アツシとユキコの関係は姉弟と信じて疑わなかったし(その割りに仲良すぎて気持ち悪いとも思ったけど)、帰りの在来線の中で浅野忠信(役名忘れた)が「あなた本当は誰なの?」と聞いたときもてっきりユキコが出家のために弟は自殺したんだと自分に言い聞かせたのかもしれないなんて思ったのだけど、ああびっくり!最後。アツシは花繋がりでユキコと知り合い、恋人同士とまでは行かなくても、一緒に山に行ったりデートするような間柄だった。そして彼の本当の親族はユキコではなく教祖のほうだったのだろう。
加害者遺族の皆にはまだ、きっと永遠に、告げられない。ちょっと腕白なキャラクター(ここでは伊勢谷友介)が同空間にいる場合、定石として大人しくてちょっと陰のあるアツシが逆に最終兵器になる可能性があるなと思っていたけど、まさかここまで巨大兵器だとは思わなかった。アツシというキャラクターが、一番多くのものを背負っているのだ。自分は家族に恵まれなかった、だからこそ“家族”に憧れたアツシ。「父親みたいだった」と言う台詞を聞いた彼は、自分の中に父性の不在を痛感したはずだ。それでも「人を殺さなくてはいけない宗教なら、寧ろそれを信じないことを選ぶ」といえるアツシは強い。彼を強くしたのは、不在の父親の存在なのだと思う。不在をバネに出来るしなやかさをこのキャラクターは持っている。


ところでアツシを演じた俳優がARATAであることに、最後まで気がつきませんでした。スタッフローリングで「え」!
ど、ど、どうしたの。なんかすっかり丸くなっちゃって。元モデル…だったよね?伊勢谷友介は逆に超ナイスバディでした。(24-11-2004)