ふらんす*にちようざっかblog

美術とフランスにまつわる雑話。でも最近は子育てネタばかり。

リトルダンサー

BILLY ELLIOT 邦題《リトルダンサー
監督:スティーヴン・ダルドリー
イギリス、2000年、111分 ☆☆☆☆☆

かなりな評判に押されてロングランだったこの作品ですが、観に行ったのは結構後でした。でも、本当に観て良かった!もっと早く観に行けばよかった!と思える作品でした。単に「子供の夢が叶う物語」としてしか捕らえてなかったので、それほど心を惹かれなかったのですが、でも、それよりもっと深い感動を与える物語です。


確かにビリーはピアノが好きだったしボクシングに対して本当に興味を持てずにいたかもしれないけれど、それは決して彼が女の子っぽいとか言うことの説明ではなく(その例として友人のマイケル君がいるのでしょう)、彼はもっと自分なりのものが欲しかったのだと思います。ボクシングのように具体的な暴力(と言うと語弊があるかもしれませんが)によるものではなく、もっと、精神を解放してくれるものが欲しかった。
そして巡り会ったバレエ。自らの身体のみであらゆるものを表現する芸術。時に重力を感じ、時に重力を感じない存在になるバレエダンサー。わたしは、身体という物理的なものに拠りつつもそれを超える可能性をみせるもの、それがバレエだと考えます。フィジカルなものとメンタルなものを併せ持つ、そしてその時その場所でと言う一回性を持つ瞬間の技。瞬間の技の為に、何年もの努力が必要な芸術。精神と身体とが密接に絡まりあっていなければ生まれないその技は、実現した時に、身体から分離し感動を生むのです。
ビリーは誰か具体的なバレエダンサーのようになりたいわけでもなく、練習中に特別上手い子に巡り会って魂を揺すぶられたわけでもありません。カーステレオから流れる《白鳥の湖》の音楽の美しさは感じたけれど、そのストーリーには「つまんなそう」とそっけないビリーは、理性に知覚できるものに惹かれてバレエを始めたのではなく、ただもう「直感で」バレエが自分の道だと感じたのだと思います。


男社会で育ったビリー。男社会にいる男の子は、早く大人になることを要求されます。男社会が男の子に望むもの、それは「強い働き手」なのです。ビリーはそこに違和感を覚えます。『ママが死んだことをいつまでも悲しんでいてはどうしていけないの?』心の動くままに心を流してやることが許されない社会を、ビリーは踊りで打ち破ろうとします。時に苛立つようなビリーのステップは、おそらくその攻撃的表現でしょう。そう、まさに踊りとはありとあらゆる感情を表現することができるのです。そして、心を心の流れる方向に解放してやるものなのです。


イギリスという、都市部では非常に開放的な面を示す一方で、地方に行けばごりごりのマッチョ信仰を持つ国の二面性も良く捉えているし(だからこそマイケル君はロンドンで生活してるのね)、子供の夢を叶えるために自らの信念を曲げようとした父親像もしっかり描けている。そして、その主義主張を曲げずとも子供の夢をかなえてやる方法だってあるんだということも示すあたりが上手い。信念を持ってやり遂げること、それがこの映画の根幹テーマである限り、主人公以外の登場人物たちもやり遂げなくてはいけないのです。反対を押し切ってバレエを習うというビリーのアクションと、バレエという身体運動を通してあらゆるものからの「解放」を謳った映画なのではないかと思います。単なる「Dream comes true」ストーリーではないのです。ここには意思があります。解放への希求です。それが観客の心を捉えるのでしょう。


○oおまけ
ラストシーンに登場する本物のバレエダンサー、アダム・クーパー。彼が一瞬しか出ないところがまたいいの!!彼が一瞬映ることで、彼の完璧なジャンプが映ることで、ビリーがバレエのどこに惹かれたのかということが説明無しにわかることでしょう。バレエって何?とかダンスって?なんて疑問はもう無く、だたひたすらに有無を言わせぬ芸術が持つ吸引力。クーパーの背中がそれを体現して見せる美しいラストシーンです。クーパーのバレエはasin:B0007IO0T2。(03-08-2001)