ふらんす*にちようざっかblog

美術とフランスにまつわる雑話。でも最近は子育てネタばかり。

志野と織部展

2007年2月20日から本日4月22日まで出光美術館で開催している志野と織部 風流なるうつわ展に行ってきました。国宝の志野茶碗・銘「卯花墻」が出品されていると聞いたので、頂いたチケットを持って出光へ。

志野焼きとか織部焼きと一般に言われていますが、これらは全て美濃焼きの種類。美濃焼きは岐阜県で作られる陶器で、桃山時代の日本の陶芸を語る上では欠かせないものです。岐阜の焼き物は7世紀から始まるといわれていますが、元々作陶に向いた良質の土がとれることから、平安の昔から外国の使者へのお土産物などに用いられてきました*1。室町中期以降、戦火を避けて美濃の地に移り住んだ瀬戸(愛知県)の陶工家たちが作り上げたため、釜跡が発掘されるまで、たとえば「黄瀬戸」は瀬戸で焼かれたものであると考えられていました。こうして瀬戸の陶工達の流入後、今まで「山茶碗」と呼ばれていた無釉の作陶を行っていたこの地で、灰釉や鉄釉がかけられた、新しい器が制作され始めます。現在我々が目にする「志野」や「織部」は、いわゆる「桃山古陶」とよばれるものと、それを原型とした複製品(というのは言いすぎか?)です。これら桃山古陶が一世を風靡した最大のバックグラウンドは、千利休の侘び茶の流行他なりません。

16世紀に入り、それまでの地下窯から単室の登り窯での焼成がなされ、16世紀中頃になると灰釉は改良されて焼き流れしにくい黄色をした釉薬の「黄瀬戸」が出来ました。また、焼き上がった窯の中より取り出して、急冷することにより黒くなる「瀬戸黒」、酸化鉄の泥漿を掛けた「鼠志野」なども排出。また「志野(古志野)」の最大の特徴は、日本の作陶において初めて絵付がされてことにあります。印判とか、掻落としとかの技法はありましたが釉薬の下(施釉する前)に絵を描く、いわゆる染付けは志野がその始まりでした。大振りな素地に鉄釉で絵を描き、基本的には長石だけの釉薬を使いじっくり長時間かけて焼成されており、主題は身近な風景やものでした。素地や釉薬の中の鉄分が焼成段階に緋色 (鉄粉が熔けて赤く浮き出る)の景色が表れているものは特に大事にされたようです(下画像「卯花墻」参照)
  

利休の侘び茶を前衛的な、しかし風雅なものと替えたのは、戦国武将であり利休の茶弟子であった古田織部でした。織部焼の特色は、釉、文様、形態に技巧をこらした斬新な意匠にあります。特に青織部と呼ばれる緑の施釉をしたものが有名ですが、異国風、幾何学的文様などデザインも色々あり、器の形自体もモダン。

器だけではなく文様意匠*2や、器形の源流にも迫ろうという今展覧会はなかなか面白かったが、しかしなんせ地味な器たちなので、華々しくは無い。最終コーナーの織部動物型水滴がめちゃくちゃ可愛かった。


ちなみに現在展示されているムンク作品3点の中では、1919年の《肘掛けイスの側の裸婦》が一番好きでした。眩暈が起こりそうな不安感が良い。2007年8月まで。

*1:醍醐天皇の献上品目録などに残されている

*2:織部の兎柄はヘタウマでよい。鍋島の上手さとは対照的に、しかし昔兎を鳥とみなして数えていたという事実を感じさせる造形