ふらんす*にちようざっかblog

美術とフランスにまつわる雑話。でも最近は子育てネタばかり。

風神雷神図屏風

10月1日までの会期だった「国宝 風神雷神図屏風 ―宗達・光琳・抱一 琳派芸術の継承と創造―」展を見に、最終日前日に出光美術館へ行ってきました。個人的に、こんなに混んでる出光は初めてです…どうしたんろう、やっぱり66年ぶりに風神雷神図屏風が揃うってことは、美術専門者以外にもすごいイベントだったってことなのかしら。

今展覧会は、インドや中国のイメージソースを大和絵の伝統の中に焼き直し、今では誰もが必ず知っているキャラクター*1的レベルにまで浸透した風神と雷神の、そのオリジナルである俵屋宗達版、その約100年後の尾形光琳版、そして江戸琳派酒井抱一版という2つの模写を一堂に会した展覧会。

…ということで、ものすごーく楽しみにしていたんだけど、
なんすか、あの会場設営は!?
なんで、なんで3つ一緒にあるのに、全部を一目で見られないの!?

其一の襖絵(富士美術館蔵)が来なかったのは、まぁ仕方ないかなと思う。でも、せっかく集まった3点を、こんなにばらばらに見せられたんじゃ、意味が無ーい!!全く比較できないじゃないか。本物が横にあるのに、来場者が見ているのは説明パネル。これじゃ意味が無いのだ。説明パネルはもちろんあっていい。でもそれは、本物をじっくり見た後での補足情報じゃないの?自分が作品を見て感じた事は学術的根拠があるのかどうか、そんな“答え合わせ”的要素じゃないのか、パネルっていうのは。或いは鑑賞の手引きという予習要素なんじゃないのか。パネルが主体になっちゃダメなのよ。
出光の会場は、各部屋の中心にビルの骨組み柱が立っているので、この3点は普段屏風を展示している部屋(今回の会場構成では《紅白梅図屏風》などを展示していた第2室)に置かれるのだろうと思っていた。ところが、第一室。蛇行する導線の中で見せられる3点。まったく比較させながら見ることが出来ない。全くもってがっかり。


さて気を取り直して作品に意識を向ける。わたしは宗達版が一番いいと思ったが、同行者は光琳版が一番良かったらしい。抱一版は、二人揃って「下手(げて)だね」という評価(とは言えマニエリスムの画家としての面白さはあるのだけど)。
宗達はぎりぎりのバランス感覚がいい。構成されたばかりの図像の持つ生々しさ。風神雷神両者の位置は、動感を感じさせる。それに対して光琳はどっしりとした安定感。画面にびたっ!と嵌っている。動感は犠牲にされたが、その反面、豪華さと素晴らしい安定感、神の威厳のようなものを感じさせる。それを踏襲した抱一は、動感もまたどっしりとした安定感もなく、一旦固まったものが再び壊れだす前の魅力的な不安定さを感じさせる。雷神はいい顔をしているが、風神のほうはかなり崩れてしまっていた。それもまた面白い。

3作を並べて比較する事は出来ない展覧会だったけど、混雑している中を行きつ戻りつして記憶を頼りに比較していくことで、じっくり考えながら見ることが出来て、かえってよかったかもしれない。(30-09-2006)


現在は《伴大納言絵巻》を公開中(11月5日まで)。こちらも大和絵の一級品!

*1:やっぱり“風邪に改源”@(株)カイゲンの成果なのか…