ふらんす*にちようざっかblog

美術とフランスにまつわる雑話。でも最近は子育てネタばかり。

バルラハ展

藝大美術館で開催されている「ドイツ表現主義の彫刻家 エルンスト・バルラハ」展(2006年4月12月25日〜5月28日)に行ってきました。日本におけるドイツ年が終わりに近づき(って言っても何月を区切りとするのか良くわかってないのですが)、その最後を飾る展覧会のひとつ。木彫12点、ブロンズ24点、陶磁器15点、素描75点他、全180余点を集めた展覧会です。現在町田の版画美術館でケーテ・コルヴィッツ展が開催中なのですが、同時代人、しかも交流もあった作家の展覧会なので、そちら併せてと行くとより深く楽しめると思います。コルヴィッツは6月頭までやっていますが、バルラハは今月末までなのでお急ぎください!(どうでもいいけど何で“バルラッハ”じゃないんだろう?)
エルンスト・バルラハ(Ernst BARLACH, 1870-1938)はウェーデル(ハンブルク近郊)に生まれ、後半生をギュストローで過ごした彫刻家であり劇作家である。今展覧会は、素描家になるべくスタートした彼の画業から時系列的に作品変遷を見ていくものであり、内容的にも作品配置の物理的にもバルラハの制作の大転換期であったロシア旅行記を折り返し地点としている。わたしは今まで、既にいくつか見て知っていたバルラハの簡素なフォルムはアール・デコ時代を反映したものだろうと思っていた。けれどもわたしのバルラハ認識は時代的ずれがあり(もっと遅く生まれている人だと思っていた)、それにより考え違いをしていた部分を多く発見できて、大変有意義な展覧会体験となった。

会場構成
第1章:ハンブルクドレスデンでの修行時代(1888-1896)
第2章:パリ滞在時代(1896-1897)
第3章:ハンブルク、ベルリン、ヘール時代…ムッツ製陶工房での制作(1898-1904)、およびヘール製陶専門学校での教師時代(1904-1905)
第4章:ロシア旅行(1906)と、ベルリンでの芸術家としての初成功(1907-1908)
第5章:フィレンツェでの修行時代(1909)
第6章:ギュストロー時代(1910-1938)…第一次世界大戦中・戦後(1914-1926)
第7章:偉大なる制作の時代(1927-1932)、そしてナチス時代における芸術家バルラハの存在(1933-1938)

線描家を目指し工芸学校で学んでいた頃のバルラハのデッサンは、古典的で健康的なフォルムを線描家らしい明確な輪郭線と柔らかな陰付けで表現したものであった。だが一方で、《室内、未来の日曜日の朝の風情》という1889年のペン画はその好例であるが、よく見ると汗をかいた太陽が流し目で室内を見ていたり、邪悪な顔(comme to dadyの小人を思い出したよ…)をした小人にも見える人間がベッドで寝ていたりして、アカデミックとはなかなか言いがたい作品も残している。表現としてもまるで線刻銅版画のようである。ここでまず、わたしが思っていたよりもずいぶん早い生まれであったバルラハが、アカデミー教育と世紀末芸術の洗礼を受けていた(それもパリで!)ことに驚いた。バルラハがパリに着いた1896年は既に印象派の展覧会として名高い Salon des Independants サロン・デ・ザンデパンダンは既に指導的能力を失い*1、かわりに官展(Le Salon ル・サロン)とそこから分離した国展(La Nationale ラ・ナシオナル)が、二大潮流としてフランス芸術界を担っていた。それに加えてビングの新店舗「アール・ヌーヴォー」が1895年にオープンした世相の中、バルラハはパリで象徴主義者たちのソワレに参加するなどして、世紀末の要素を取り入れていった。《白雪姫》のようなまさにアール・ヌーヴォー期のポスターを思わせる作品から、ロートレックを髣髴とさせる作品まで。陶磁器作品にも、アール・ヌーヴォーの工芸の影響が明らかに出ていた。
そんな流れる曲線の芸術から簡素なマッスの彫刻へとバルラハを移行させたのは、ロシア旅行(正確には南ロシアで、現在のウクライナへの旅行)での体験だという。血の日曜日事件(1905)直後の荒れたロシア体験を通じてバルラハは内省的な制作へとより心を傾けるのだが、それが見た目のフォルムに表れるようにするためにはどうしたらよいのかと思索する。そこで彼が辿り着いたのはバラバノフという原始崇拝の石像であった*2。今回出展されていた《ロシアの物乞い女 II 》の息詰まる感じったら!!精神的な表現もさることながら、いる!この人道に絶対いる!っていうリアリティー!
1910年の《ベルゼルケル(戦士)》の制作を経て、バルラハの作品人物たちは大きな身振りを手に入れる。動いているのに停止している、感情だけが迅く動き肉体は静止している、そんな印象を与える最高の出展作は《恍惚の人》と《復讐者》。これはもう、やばかったです。ほんとに、“恍惚”だった、そして刀(寧ろ鉈と言いたい)を振り下ろそうとしていた。叫んでた。《恍惚の人》については、ベルニーニの恍惚とは時代が違うんだということをまざまざと見せ付けられた感じ。とてつもなく単純なフォルムなのに、なんであんなに雄弁なのだろうか…。この一点を見るだけでもこの展覧会にいく価値は十分だ。
こうして静動両方の表現を掴んだバルラハは、戯曲作成とその出版を通して、線描画と彫刻両者の利点を生かした制作を続ける。宗教的な作品も幻想的な作品力強い。「ヴァルプルギスの夜」の連作版画(欲しい!)の魔物たちは寧ろ妖怪っぽい。そう、彼の作品にはどこか東洋的なところがあり、例えば人物彫刻の顔はどことなくアジアやオセアニアの人間を思わせる顔だし(故にゴーガンを思い出させる)、僧たちはもはや大仏だ。晩年はナチスから「頽廃芸術」の烙印を押され苦渋の中で死んだバルラハだが、その作品は我々の心に強く鋭く切り込みとどまる。久々に感動し興奮した展覧会だった。(20-05-2006)

*1:1874年に始まった印象派展は1886年が最後。その年の9月18日にモレアスの「象徴主義宣言」がル・フィガロ誌に発表される。

*2:アール・デコの流れからじゃなかったのか!と個人的に一番吃驚したところ。因みに似たような豪快なマッスを誇る彫刻家F.ポンポンは、エジプト美術の研究の成果です。参照→2004年11月16日の過去記事