ふらんす*にちようざっかblog

美術とフランスにまつわる雑話。でも最近は子育てネタばかり。

メランコリー展評


先月記事に取り上げ、1月16日をもって終了した、グラン・パレの「Melancolie : Genie et folie en Occident」展に行ってきた。フランス国立美術館連合(RMN)とベルリンの国立美術館(Staatliche Museen zu Berlin)の共同企画+パリのピカソ美術館協力による、展示作品250点を数える展覧会である。同時期に開催されていた「Vienne 1900」展のほうが看板企画だったので、サブ企画展だと高を括っていたのだが、なかなかどうして大掛かりな企画展だった。寒風吹きすさぶ中で3時間ほど待っての入場だったため、入場時に既に疲れ気味。メモを取る心理的余裕も無く単純に見てきたのだけど、思い返すと実は凄い展覧会だったような気がする。

会場構成
1) La mélancolie antique
2) Le bain du diable. Le Moyen Âge
3) Les enfants de Saturne. La Renaissance
4) L’anatomie de la mélancolie. L’âge classique
5) Les Lumières et leurs ombres. Le XVIIIe siècle
6) La mort de Dieu. Le romantisme
7) La naturalisation de la mélancolie
8) L’Ange de l’Histoire. Mélancolie et temps modernes

1) La mélancolie antique
アンフォラ式土器などを展示し、そこに描かれるメランコリー(憂鬱)*1の表現を示す。基本的には座位、かつ肘をついて片手で顔を支える格好がメランコリーの典型表現として示されている。


2) Le bain du diable. Le Moyen Âge
ボッス!クラナッハ(父)!デューラー!バルデュング=グリーン!百鬼夜行的絵画が好きな人にはたまらないセクション。メランコリーというテーマを忘れてつい画面に見入ってしまいつつも、デューラーの硬い表現に、展覧会テーマへと意識を戻される。時間軸的には早いけど、ブリューゲルやブレイクも数点ここに。


3) Les enfants de Saturne. La Renaissance
土星の子供たち”というタイトル。Saturne(土星)とは同時に、黄金時代*2の農耕の神で地上の支配者サトゥルヌスでもある。憂鬱質(次項目参照)は“サトゥルヌスの娘”とされている。サトゥルヌスはまた幾何学の支配者でもあるため、幾何学に使用する道具や多面立方体をモチーフにした立体作品も展示される。個人的には、幻想画家モンス・デジデリオ(フランソワ・デディエ・ノメ)の地獄図が見られたことがとても嬉しい。


4) L’anatomie de la mélancolie. L’âge classique
メランコリー(憂鬱質)を解剖学的に見るセクション。中世の生理学で成立した四気質(Quatre Temperaments)*3の説明に則った憂鬱質の作例と、動植物や胎児の標本、ミイラや髑髏といった作例が展示される。胎児の骸骨3体とミイラ1体で構成される祭壇(?)が可愛らしく、奪って帰りたかった。

四気質
 憂鬱質…黒胆汁…地…豚または犬
 胆汁質…黄胆汁…火…獅子
 多血質…血液…空気…猿
 粘液質…粘液…水…子羊

憂鬱質
“サトゥルヌスの娘”として特に陰気な性質を指す。だが人文主義者たちは憂鬱質を、寧ろ自分たちが理想とする内省的・知的性格と同一視、“瞑想的人間”の性質と見なした。典型的な頭を抱え込んで座り込むポーズは、究極の知恵・知識を得られないという絶望感、又は創造的霊感の喪失を意味する*4。サトゥルヌスは前述の通り幾何学の支配者でもあるため、憂鬱質の作例にはコンパスや定規、大工道具や多面立方体といった物がしばしば共に描かれる。


5) Les Lumières et leurs ombres. Le XVIIIe siècle
光と影というテーマなので、カラヴァジェスキの作品から開始したセクション。時代が下っていくとメイン作品としてゴヤを展示。前セクションのアナトミーの繋がりか、ゴヤの、着飾ったしわくちゃ婆さん2人を描いた作品が一際輝く。ブレイクも再び(だったような気がする)。しばしば後姿を描くワトーも、メランコリーという眺めで見るとそう見えるのが不思議(こじつけっぽいけど)。


6) La mort de Dieu. Le romantisme
メインの展示作品はフリードリヒと(ロマン主義じゃないけど)ベックリンベックリンの《死の島》はバーゼル所蔵の方が好きなのだけど、来ていたのはベルリンのものだった。同じロマン主義とはいえ、フランスのロマン主義と北方のロマン主義は、どうしてこんなに違うのだろうか。個人的には、燃えるようなフランスロマン主義よりも、静謐で含みのあるドイツロマン主義のほうが好きだと、改めて思う。
  
左)バーゼル所蔵、右)ベルリン所蔵


7) La naturalisation de la mélancolie
8) L’Ange de l’Histoire. Mélancolie et temps modernes
7と8のセクションがどう分かれていたのか覚えていないんだけど、狂人写真、ゴッホアルトーデ・キリコのあたりがナチュラリザシオンだったのかな?シュトゥックのグラン・フォルマの作品が2点来ていたので驚く。何でここでシュトゥック?っていう意味で吃驚なんだけど。次の展示作品ムンクへ続けるなら、ここはアンソールかクリンガーかホドラーの方が適切だったのではないだろうか。あぁせめてクリンガーは持ってきて欲しかった(単にわたしの見落としで、出品されていたらごめんなさい)。ホッパーの空虚感は確かに現代のメランコリーかもしれないと思う。オーストラリアのミュエクの巨大人物オブジェを初めて生で見たけど、これほんとにキモイね(笑)。ところでRon Mueckが来月出ますよ。



さて、見終わってすぐの感想は「こじつけじゃん!」でした。特に後半がだれた印象。メランコリーってだって、現代病のひとつとすら言えると思うんだけど、だからこそどの時代にだってその作例は見出せるわけで、特にセクション5(だったかな?)の肖像画の類のメランコリーなんて、全然深みが無い。典型的なメランコリーを表すポーズをしているだけにしか見えないのだ。無理矢理さが見えるけどそれでも「何故人は憂鬱になるのか」ということを考えようとしている中世の作例のほうがよっぽど面白い。
とはいえ、それを作家たちも強く感じていたのだろう(だからこそnaturalisation(帰化)なのだ)、真の“病”としてのメランコリーへと、アートは進んでいく。基本的に全ての事象は極限まで行き着き揺り戻り、そしてその往路が再びもうひとつの極限まで行きまた揺り戻る、という作用を繰り返すと思うのだけど、メランコリーの捉え方もまた同じである。病としてのメランコリー、病ではありつつもスタイルとしてのメランコリー(メランコリーの形骸化)、そして再び病としてのメランコリー。創作の源泉となるメランコリーは常に側にある。感じたいと思えばいつでも見つけることができるのだ。個人的には、スタイルとしてメランコリーを取り上げているような作品には惹かれない。闇を見た者ならではの闇の暗さが存在することを知っているからだ。明るさを感じられる闇ならいらない、とすら思っている。現代にも真の暗闇を見せる作家が欲しい。絶望的で仕方がなくなるような。今回のメランコリー展を見て、そう思った。

*1:“憂鬱”と聞くと即座にボードレールの『パリの憂鬱』が浮かぶのですが、この“憂鬱”は“Le Spleen”なのですね。なんで英語オリジンの単語をわざわざ用いているのだろう?

*2:世界を4つの時代(黄金、銀、青銅、鉄)に区分した際の、最初の時代。オヴィディウス『転身物語』冒頭参照。青銅時代を排除した3つの時代区分のほうが一般的か。

*3:肉体には4種類の液体(=体液)が流れ、そのいずれが相対的に優位かに応じて人の気質が決定されるという説。この体液を分泌する器官は天体の影響に支配される。

*4:それ故に虚しさの象徴である頭蓋骨を持つことが多い。