ふらんす*にちようざっかblog

美術とフランスにまつわる雑話。でも最近は子育てネタばかり。

ダヴィッド展補足・《マラーの死》


1793年、カンヴァス・油彩、165×128,3cm、王立美術館、ブリュッセルベルギー
この作品は、元々国民公会のホールを飾るために制作され寄贈され、ジャコバン派のある種広告的役割を果たした。ダヴィッド自身かなり自信の作であったようで、後に作家がブリュッセルに亡命する際には作家自身が携帯した作品である。簡素であり中心人物を浮き立たせる背景表現に、カラヴァッジオの影響を見る研究者は多い。
マラーは皮膚病にかかっており、その治療として長時間風呂に浸かることが必須であった。風呂場が彼の仕事場であったわけである。左手に持つのは、マラーを殺害したノルマンディーの田舎娘シャルロット・コルデーからの手紙(これを読ませ油断させたところを殺害した)。浴槽の脇の木のテーブルに乗せられているのは、祖国のために死んだ一兵士の未亡人への送金願いの手紙と、そのお金。右手の下に転がるのは凶器のナイフ。本物は木の柄だったらしいが、ダヴィッドはそれを白い象牙製のものに変え、血糊の効果を高めている。

○参考図書○

初めて生でこの作品を見たのだけれど、そのマチエールの粗さに驚きました。画面左上の明るい部分は、暗い地の上に、黄土色に近い茶褐色を斑点のように乗せており、その斑点がマラーの皮膚の上にも散っている。物理的な滑らかさが無いので、一瞬「マラーの皮膚病の表現か?」と思ってしまったほど。遠目に見ると皮膚上の斑点と背景の斑点が繋がり、目に違和感無く入ってくることが分かりました。でも普通の目の高さでこの作品と向き合うと、皮膚上の斑点はなかなか不気味。18世紀は、今現在我々が絵画を鑑賞する位置では鑑賞しないものなので、遠目の処理の方が制作において重要だったのだろう。あと実際に見て分かったことは、今までマラーの目は閉じていると思っていたんだけど実は半目であること。これはかなり気持ち悪い表現でした。死体の目は開いていることが多いと聞いたことがあるけど、まさに“死体”なのだという実感が湧いてきます。湯船の透き通った血水の表現も圧倒的。“英雄”というものに非常な重きを置くダヴィッドは、マラーに対し、殺害前に風呂場で暴れたであろう形跡も死体の醜い形相も封印し、死を受け入れた悲劇の人物としての崇高さを持たせています。


余談ながら、シャルロット・コルデーと言って思い出されるもうひとつの作品は Edvard Munch エドヴァルド・ムンクの《シャルロット・コルデーの肖像》(1930年、オスロ市立ムンク美術館所蔵)*1。1930年に連作《マラーの死》を制作しているように、このノルウェーの画家にとって、フランス革命期に起きたこの事件は強い関心の対象だったようです。ただしムンクにおけるこの事件は史実に終始せず、個人的恋愛体験*2の記憶と結びつき新たな様相を呈しているところが魅力。

*1:現在、東京の出光美術館で2006年8月まで展示されています。詳しくは出光美術館のサイト内ページ

*2:1902年に終わったトゥーラ・ラールセンとの恋愛体験。ラールセンをコルデーに、ムンク自信をマラーに投影しているが、実際の事件は拳銃の暴発という出来の良くない結末を迎えている。「悪意ある強き魅力的な女」と「その犠牲となる弱き男」という、世紀末的かつムンクが繰り返し描いた主題のヴァリアントでもある。