ふらんす*にちようざっかblog

美術とフランスにまつわる雑話。でも最近は子育てネタばかり。

ダヴィッド展評

David A&i (Art and Ideas)ジャックマール=アンドレ美術館*1で開催中のJacques-Louis David展に行ってきました。展覧会のメインはブリュッセル王立美術館の《マラーの死》。ポスターにもなっていて、実物を見たのは初めてだったので、その小ささとマチエールの粗さにちょっと驚きました。この作品は工房作品*2もあり、たぶんルーヴル美術館が持っているのは工房作品ではなかっただろうか?そもそも普段一般公開してなかった気がするけど(ルーヴル内で見た記憶が無い)。

Jacques-Louis DAVID (Paris 1748 - Bruxelles 1825)
新古典主義の巨匠のひとり。中流階級の家に生まれる。父親ルイ=モーリスは鉄の卸売商人であり、カルヴァドス県の税務署員の肩書きを持っていた。母親マリー=ジュヌヴィエーヴは、ジャック=ルイ少年の父が決闘*3で死んでからは少年の面倒を見ることを放棄。少年は建築家 François Buron フランソワ・ビュロンと Jacques-François Desmaisons ジャック=フランソワ・デメゾンという、母方の2人の叔父によって引き取られた。少年は古典的な教育を受け、16歳の時に画家 Joseph-Marie Vien ジョゼフ=マリー・ヴィアン(1716-1809)の指導の元、王立美術アカデミーに学び始めるFrançois Boucher フランソワ・ブーシェ(1703-1770)は少年にとって母方の遠い親戚であり、ブーシェは弟子を取っていなかった為、ブーシェがヴィアンに少年を紹介した。
1771年からローマ賞に挑戦し続け、1774年、Antiochus et Stratonice《アンティオコスとストラトニケ》(パリ、エコール・デ・ボザール所蔵)にて念願の賞を獲得*4。翌1775年より、ちょうどローマ勤務となった師のヴィアンと共にイタリアへ渡る。イタリアにて古典要素を存分に吸収し、留学期間中の1784年に、ルイ16世からの国家注文作であるLe Serment des Horacesホラティウス兄弟の誓い》(パリ、ルーヴル美術館所蔵)を制作。「理想の美は古典作品にあり」とするダヴィッドの、最初の記念碑的な作品である。
1782年には Marguerite Charlotte Pécoul マルグリット・シャルロット・ペクル*5と結婚、2児をもうける。やがてマルグリットが、ダヴィッドが政治への加担*6が過激化していくことに恐れた為離婚。しかしロベスピエールの失脚後投獄(1794年)されたにも関わらず、マルグリットはダヴィッドを再び受け入れ、1796年に再婚した。この、ダヴィッドが最も政治的に過激であった時代の代表作が《マラーの死》である。
1804年ナポレオンにより「主席画家」として保護され、4枚の作品注文を受ける*7。ナポレオン治世下で画壇に絶対的な地位を得たダヴィッドだが、ナポレオン失脚後は彼もまた失脚し、1816年よりブリュッセルに亡命。富裕階級の人々の肖像画を描き生活の糧を得る。1824年に注文無しで描いた大作Mars désarmé par Vénus et la Grâceブリュッセル、王立美術館所蔵)は、ダヴィッドにおけるロマン派絵画の誕生と古典主義の再発見の作として名高い。

ダヴィッドの作品は、イタリア留学以降の新古典主義ごりごりの作品しか見たことが無かったので、初期のロココを引きずった作品には驚かされました。こんな絵も描いていたのか!と。展覧会規模はそれほど大きくなく、各時代に特徴的な作品をピンポイントで見せるというものでした。時系列に沿って展開して《マラーの死》で一時休止、ナポレオン時代の作品は少なく*8ブリュッセルに亡命してからの肖像画群で閉める構成。亡命後の作品は、それまで主眼が置かれていた“英雄性”や“偉大さ”と言った要素が抜けて、富裕とは言え一般市民の肖像画であるせいかもしれないが、若干初期のロココ的な甘い雰囲気に回帰したような気が。作風ががらっと変わるので、イタリア留学が彼にとって如何に重大な転機であったかがとてもよく分かりました。先に見たジロデ展(前回記事参照)で参考作品として出されていたダヴィッドの作品の、そのエスキスやデッサンなども出展されており、両展をまとめて見ると頭の中でリンクさせ易いのでお勧めです。
今回の記事は長くなってしまったので、《マラーの死》についての補足は次回。

*1:Musée Jacquemart-André : 158, bd. Haussemann 75008 : 10:00-18:00、年中無休。19世紀の富裕な銀行家エドゥアール・アンドレとその妻ネリー・ジャックマールの作り上げた美術館。イタリアンルネサンス(カルパッチオやクリヴェッリ等)、17世紀フランドル、18世紀フランス(特にロココ)作品を内包したコレクションを、19世紀の雰囲気のままに展示する美術館。

*2:大作家の工房(アトリエ)で制作され、主に弟子たちの筆によるもの

*3:1757年12月の出来事なので、当時ダヴィッドは9歳

*4:3度目の挑戦であったMort de Sénèqueセネカの死》(パリ、プティ・パレ所蔵)の落選時は自殺しようとすらした。

*5:34歳のダヴィッドと17歳の少女の結婚。彼女の義理の父は王室付きの建築請負業者で、義理娘に寛大だった彼はこの夫婦に多大な資金援助をした。

*6:ダヴィッドはジャコバン派党員として1792年国民議会議員となり、ロベスピエールバスティーユ牢獄襲撃事件にも関わっていた。

*7:うち実際に制作されたのは、支払い問題の都合で、Le Sacre戴冠式》(パリ、ルーヴル美術館所蔵)と La Distribution des Aiglesヴェルサイユ宮美術館所蔵)の2点だけである。

*8:ルーヴルやヴェルサイユに行けば見られるからわざわざ借り出す必要が無いためか。つくづく贅沢な国である。