ふらんす*にちようざっかblog

美術とフランスにまつわる雑話。でも最近は子育てネタばかり。

エデンへの道

Der Wegnach Eden 邦題《エデンへの道―ある解剖医の一日―》*1
監督:ロバート・エイドリアン・ペヨ
ドイツ、1995年、86分

死んだら肉体はどうなるのでしょう。そんなことは、簡単です。腐っていくだけです。平安末期の絵巻物をわざわざ見なくたって、そんなこと分かります。わたしたちは、死を「知識」として知っています。しかしそれは、本当に理解していることに繋がるのでしょうか。
この物語はブダペストの実在の解剖医であるケシェリー・ヤーノシュを追った“デッド”ヒューマン・ドキュメンタリーです。映画の中に出てくる解剖シーンに、途中で席を立つ人も見られたこの作品ですが、気持ち悪さを我慢してでも絶対見るべき映画だと思います。


まず驚いたのは、解剖の仕方でした。ヒトの解剖があんなふうに行われるものだったとは知りませんでした。まず、耳の後ろから脳天と後頭部との間にメスを入れて、頭皮を頭蓋骨から剥がします。フロントの皮はべろりとめくって鼻に引っ掛け、バックの皮はそのまま垂らしておいて、頭蓋骨の処理にかかります。まず骨を真中でばくっと電気鋸で切り、そして脳みそを取り出します。その時脳と、その下の神経束とを繋いでいる部分をぶつりと切断するのですが、わたしたちの体を動かしているもの(脳)と動かされているものとの間にはあんなにも白くて小さな線しかないのかと思うと、今自分が生きて動いているのが物凄く驚異的なことのように思えて仕方がありませんでした。取り出した脳みそを輪切りにして検査している間に身体に取り掛かります。背中にレンガのような小さな台を置き反り返らせた身体の、咽喉元から下腹部にかけてメスを入れると、ボワッと(ほんとに、ボワッッ!て感じなのです!溢れるように!)黄色い脂肪が湧き出てきます。
ヤーノシュをはじめとする解剖医の人たちは、黙々と、そして淡々と自らの仕事をこなしていきます。手元を映さなければ、解剖というよりはむしろ精密機械を解体しているといってもいいくらいです。ヒトもある意味精密機械ですが、やはりそこにある命の存在は無視できません。けれども彼らは決して命の無くなったモノとして遺体を扱っているわけではなく、その手の動きには優しさが感じられてやみません。
とくに主人公であるヤーノシュは、死に対して自分なりの視点を持っていて、自分の仕事は「無力に横たわり埋葬を待つ彼らをいたわること」だと言っています。彼の、解剖を通して築き上げられた死への視点は、現代の終末医療に対する批判でもあります。ヤーノシュは言います、「死ぬのは怖くない。怖いのは尊厳が失われた死だ。」と。「医者は患者の肉体だけでなく心にも気を配るべきである。 物質偏重の現代医学は、人間の寿命を延ばすことに成功した。現代人の死因は病気ではなく孤独である。」と。


ヤーノシュの勤めるセント・イストヴァン病院には毎日のように遺体が送られてきます。殆どは、近所のカッライ・ホスピスから運ばれてきた老人たちのものです。ただ体を洗われ寝るだけの老人たちを映しながら響くヤーノシュの声。カメラはホスピスの老人たちを映し、そのまま解剖台の上の死体を映します。まるで、さっき映っていた老人が解剖台に寝ているかのように。生と死の肉薄、と言うあたりまえながら忘れている事実の再認識。
ヤーノシュが生きている魚をさばくシーンがあるのですが、彼は仕事の時のような正確さで手際良く魚をさばきます。このシーンを見て、ヤーノシュにとってはヒトもサカナも同じなのだなぁと思いました。同じいのちある(あった)ものを扱っているのです。生きて動いている魚をさばくのだから、多少は乱暴な力が加わりますが、それでも彼の手は優しさと、その優しさを保証する医学的な正確さに支えられています。生きているものの時はもちろん、死んだものをさばくときでも、少し前には生きて動いていたものだと言うことを決して忘れない人だと思いました。

そして、それは普段わたしたちも考えなくてはいけないことだと思いました。ただむやみやたらに「いのちを大切に」とか言っているだけでは何の実感も伴いません。実感なくして吸収はありえません。こんな陳腐なことを言われて、中学生の時の私はバカじゃないの?と思っていたくらいです。身体がどうやって動いているのか、それを司っているものが何か、わたしたちは学校で習います。知っています。でもそれは、単なる知識にとどまってはいないでしょうか?

カフカは「人間は血の詰まった袋」と称しました。その袋を動くものにしているのはほんのわずかな器官です。その中枢が、あんなにも白く小さなものだと言うことを、(映像ではありますが)実際に目にしたとき、わたしたちは命の儚さに気が付くのではないでしょうか。今生きていることが奇跡のように思える映画だと思います。(---2000)

*1:あたしが映画館に見に行ったときはこのタイトルだったんだけど、DVDのタイトルは《死体解剖医ヤーノシュ〜エデンへの道〜》になっていました。なんでかな?